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5プロローグ 花野ちえさんは、ある晴れた朝に、自宅でモーニングコーヒーを飲み、新聞を読みながら、ふと考え込んだ。 元気で、炊事洗濯掃除など家事の全般をしてくれていた養母の花野ウメさんが、階段からすべって骨折したことをきっかけに、施設に入ることになって5年が経過した。この家でひとりで暮らすのにも慣れてきた。 幼いときに父と母が戦争で亡くなり、叔父に引き取られたものの、そこでも貧しくて、進学の見込みがなかった。そんな時にちえさんの才能を認めてくれて、引き取って大学まで行かせてくれたのが、養父母だった。「これからは女性も高い教育を受けて、しっかり働いていく時代よ」と、励ましてくれたウメさん。ウメさんの期待に応えて、ちえさんは一生懸命勉強し、大学を首席で卒業した後、N放送局に勤めて、海外特派員として様々な国で勤務してきた。 様々な国の政治家、官僚、国際企業を相手に、得意だった語学力を生かして、堂々と取材したこと、現地の人の話を真摯に聞いて、喜びや悲しみを共有したこと、アメリカやヨーロッパを中心に活動し、毎日一生懸命取材して、記事を書き続け発信していた日々のこと、今は全て懐かしく思い出す。 この人と結婚したいという人も現れなかったし、子どもを産んで続けられる仕事でもなかったため、ずっと独身を貫いたが、そのことはちっとも後悔はしていない。 ただ……80歳が近くなるにつれ、いやでも「老い」と向き合わなくてはならなくなっている。腰や肩が痛み、耳が聞こえづらくなり、血圧もいつも高めで、いつまで一人で暮らせるだろうかという不安が、迫ってくる。できるだけ長く自宅で暮らしたいけど、もし急に心筋梗塞になって倒れたら? そのときに救急車が呼べなかったら、一人きりで死んでしまうんだろうか。孤独死して、しばらくの間誰にも気が付かれず、醜い姿になって発見されたらどうしようか。そんなときに誰が「あとしまつ」してくれるんだろう。ウメさんは自分が最期まで看取るつもりだけど、もし順番が逆になって、私の方が先に逝ってしまったら、ウメさんのお世話は誰に頼んだらいいのかしら。私が死んだら、家や預金はどうなるの? 相続人がいなかったら国に没収されるって聞いたけど、できれば戦争で親を亡くした子どもたちのために、海外のNGO団体に寄付して、有意義に使ってもらいたいのだけれど。プロローグ

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